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『夕陽への想い』

日時場所レポート担当
2017年7月10日瀧藤

Report

先月、お休みの日に高野山へ行ってきました。時間があれば、毎年一回は高野山や比叡山へ赴くと決めており、高野山へ行った際は必ず奥の院を訪れるようにしています。
大阪の難波より南海高野線に乗ること約1時間40分、極楽橋駅からはケーブルカーに乗り換え、5分ぐらい急斜面を進むと高野山駅に辿り着きます。その高野山は大阪よりも約10℃近く温度が低いときもあり、毎年夏になると高野山を訪れたいと思うことが多々あります。
高野山は816(弘仁7)年、弘法大師・空海(以下「空海」と称する)により、密教の修禅道場として開かれました。2004年(平成16)年7月には、吉野・熊野を含む「紀伊山地の霊場と参詣道」として、ユネスコの世界遺産に認定されました。世界遺産に認定されてからの高野山は、特に海外からの訪問者が増えたように感じられます。
835(承和2)年、空海は弟子たちを集め、「御遺告」を与え、その後、奥の院の御廟にて即身仏と成られました。835(承和2)年に62歳で「入定」され、「禅定に入ること」を意味する言葉で、空海のみに用いられる言葉です。
そして、空海は四天王寺とも縁(ゆかり)があります。四天王寺の資料によると、空海が787(延暦6)年に、彼方にあるという極楽浄土への往生を願い、夕日を拝む「日想(にっそう)観(かん)」という修行を行うために四天王寺を訪れたとしています。この日想観は、極楽浄土について説く経典『感(かん)無量寿経(むりょうじゅきょう)』に出てくる教えであり、日本では空海が最初に執り行ったのではないかと考えられ、四天王寺では現在、お彼岸の期間に実施されています。平安時代後期になると浄土観や末法思想、熊野詣といったものが広まったことで、日想観は仏教行事として更に流行りました。日想観においても後の僧侶たちに多大な影響を及ぼしたことでしょう。
空海の影響を受けた修行といえば、四国遍路もその1つです。遍路修行と関連する「同行(どうぎょう)二人(ににん)」という言葉がありますが、これは遍路時、空海が常に傍にいて下さるという考え方です。「入定」や「同行二人」といった用語は、永遠(とわ)に人々を見守り続けたいとする空海の慈悲心と、傍に居続けてもらいたいとする人々の信仰心が重なり合って生まれたのではないでしょうか。そうであるならば、四天王寺が執り行う日想観の際、夕日と共に空海を想い重ねたそのとき、「同行二人」となり得るのかもしれません。

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